帝塚山派文学学会設立趣意書
昭和の戦前期、大阪市南部の帝塚山(旧住吉村)を中心とする地域に、旧制大阪高等学校出身の藤澤桓夫や長沖一たちによる文学活動が存在しました。その文学活動の中から、やがて数多くの文学者が輩出され、香り高い上質の文学が生み出されました。
住吉は古代にあっては、万葉集の歌枕として名高い景勝の地であり、「大伴の御津」の港によって海外の文明・文化が流入する拠点であり、さらに航海安全の神と和歌の神を祀る住吉神社が信仰を集める土地でした。その摂津国住吉郡も、明治時代に至って東成郡住吉村となってからは、大阪市周辺の一寒村になりました。
しかし、明治時代の終りから大正時代にかけて、住吉村に大きな変化が訪れます。大阪市の産業的な発展によって、住吉村は一転して郊外の一大高級住宅地になりました。同時に、幼稚園から小学校・旧制住吉中学校・旧制帝塚山学院高等女学校・旧制大阪府女子専門学校・旧制大阪高等学校までを村内に有する高度文教地区となりました。このような都市近郊住宅地としての住吉に、新しい文化的土壌が形成されました。
それを「帝塚山文化圏」と名づけるならば(命名は高橋俊郎氏)、その文化圏は、東洋学者石濱純太郎と帝塚山学院長庄野貞一との昵懇な関係を軸としていました。石濱純太郎の周りには、自宅の離れに寓居する甥の藤澤桓夫、長男の石濱恒夫、旧制市岡中学校同期生の洋画家小出楢重などがおり、庄野貞一の周りには次男の庄野英二、三男の庄野潤三がいるとともに、帝塚山学院がもつ豊かな人脈がありました。また、新進作家としてすでに名をなしていた藤澤桓夫の周りには、長沖一や織田作之助がいました。また、旧制住吉中学校には教員として詩人の伊東静雄がいました。
昭和21年、この文化圏を土台として、藤澤桓夫・長沖一たちによる同人誌『文学雑誌』が発刊されます。そこに加わった若手の多くは、地元の帝塚山学院の卒業生でした。この文学運動は、やがて「帝塚山派文学」と呼びうるような大きな流れを生み出しました。
その帝塚山文化圏に、司馬遼太郎が関わります。太平洋戦争末期に、石浜恒夫は軍隊の戦車部隊で同期であった司馬遼太郎に藤澤桓夫を紹介しました。このことがきっかけとなって、二人の間に文学的交流の関係が築かれます。司馬が藤澤の葬儀に長文の弔辞を捧げたことからも伺えるように、司馬は生涯先輩作家藤澤への敬愛の念を失いませんでした。帝塚山派の若手作家たちは、そういう二人の関係の波及の中で、直接間接に司馬との関係を取り結ぶことになります。このようにして、藤澤桓夫・司馬遼太郎の二人の大作家の牽引のもとに、昭和時代の大阪の文学が花開きました。
「帝塚山派」の文学者たちを、住吉に居住した文学者、帝塚山学院卒業の文学者、帝塚山学院あるいは旧制住吉中学校で教鞭をとった文学者というように括ると、十指に余ります。住吉の地にあって、地域の子弟の教育と地域文化の一角を担ってきた帝塚山学院は、平成二十八年に迎える創立一〇〇周年の記念行事のひとつとして、その文学者たちと作品を研究するための学会を設立することを決定しました。学会名は「帝塚山派文学学会」とします。
当学会の設立とその活動が、「帝塚山派文学」の再評価と、そのことを通じた地域文化の活性化に資すれば幸いです。
(学校法人帝塚山学院、帝塚山派文学学会発起人会 平成27年11月1日 帝塚山派文学学会設立総会)